モーニングセット

時間に追われずに人生を楽しんだら生活の質が変わった

世の中から消えた「かんしゃく玉」

世の中の変わりようが凄い。
茹でガエル状態でいると何も感じないかも知れませんが、ひたひたと変化は進行しています。


昔との違いを考えると、多くの「物」がいつの間にか消えているのに気付きます。
昭和的なものが消えているのが顕著です。

そんな昭和的なもののなかにも良い「物」はありました。
この記事は、そんな良い「物」を思い出していくコーナーです。

 

「かんしゃく玉」が懐かしい

「かんしゃく玉」でよく遊んだものです。


小学校の近くでは必ず売っていました。
駄菓子屋のような店に置いてあり、そこには駄菓子だけではなく、プラモデルから遊び道具、おもちゃ花火まで売っていました。

昭和の時代ならどこでも同じように売っていたと思います。
大人になっておもちゃ花火をしなくなり、長いこと気付きませんでしたが、今はどこにも売っていません。
「かんしゃく玉」は、残り物がネットで売られていますが、もう製造はされていないようです。

花火の仲間である「かんしゃく玉」は昼間向きのものなので、放課後の公園などで普通に遊んでいました。

ただ残念なことに、煙や匂いや騒音で苦情を言われると返す言葉がありません。
今のような時代には生き残れない「物」ではあるのでしょう。


「かんしゃく玉」は危険だけど、子供の時に危険度を学べた

壁や地面に投げつけて、そのショックで破裂して大きな音が出るおもちゃは他にありません。
力の入れ具合で微妙に破裂音に違いがあったり、自分の力加減でその危険度が変わることを実体験できたりしました。
何が危険なのか、その本質を類推できるおもちゃが「かんしゃく玉」でした。

危険か危険でないのか、どちらかと言われれば危険だけど、子供の時にその危険を経験したことは意味があると思います。

何でも粗探しして悪い面をクローズアップしてたら、世の中から色んな「物」が消えていきます。

平成令和と移り変わり、世の中が良くなった面もありますが、悪くなった面も感じます。

決定的に悪い「物」でなくても、頭ごなしに悪者扱いされる「物」は可哀そう。
ゲゲゲの鬼太郎」の世界なら「かんしゃく玉」は妖怪になっているでしょう。

危険なものを遠ざけたり、ただ排除すれば安全は確保できると考えているとしたら、それは「甘い」考え。
危険を秘めた物が持っている「危険性の加減」を知る機会がなければ、大きな危険に気付けないでしょう。
温室育ちで危険回避に疎い大人ばかりになったら別の意味で怖いです。それこそ危険を感じます。


神経質な世の中より寛容性のある世の中が互いに暮らしやすい

「かんしゃく玉」を自分の近くで近所の子供が破裂させて面白がったらどうするか。

・このクソガキが、と言って怒る
程度ならまだしも

・捕まえて名前や学校名を言わせる
・家まで行って親に謝罪させる
なんて世の中は地獄的です。
神経質で大人げない社会で窮屈すぎます。

・うわっ、びっくりしたー、怪我させたら119番できるか
・おっ、元気いいな、こんな遊び方もあるぞ
・年寄や自転車のそばではするなよ
・人の身体にはぶつけるなよ、親が呼ばれるから
などと注意して使い方を助言する人のいる世の中の方が暮らしやすい。

寛容性のない世の中は進歩しているとは思われず、退化していると思えてしまう。

起きたことをひたすら大きくしてしまう傾向はあるでしょう。
マスメディアの取り上げ方も大いに関係していますが。

寛容性のある成熟した社会、大人な社会にしたい。
学びの機会となり得るいい「物」は残したいと思うのですが・・


おわりに

今は何でもググれば分かります。
でも差し迫った時はググっていられません。
通信が遮断されることも容易に想定されます。

何でもググったり、いつも人に聞いたりしていては、自助は進まない。
目前の危険は回避できないし、防災意識においても進歩はないでしょう。

「考える力」をつけることは成長の証。
「かんしゃく玉」を経験していただけで、考えの範囲が広がります。

「かんしゃく玉」で遊んだことは良い経験でした。

今の世相の反映でしょうか、「物」自体に良い悪いはないのに、世の中から消えていく「物」が多いのは寂しさを感じます。